
十一月の午後だった。
コンクリートの白、リノリウムの白、白衣の白……さまざまな白色で彩られた病院の廊下は、柔らかな晩秋の陽射しで充ちていた。そうして、もはや見慣れた光景の中を進むと、その最奥にある病室の前に立った真紀は、軽く扉をノックする。
はい、と律儀に返ってきた声に、冗談めかした調子で応えた。
「こんにちは、俺です。先に言っておきますけど、帰れって言葉は前にも聞きました」
「……どうぞ」
不本意極まりなさそうなその返答に、内心苦笑する。
扉を開けると、窓から差しこむ光の眩しさに一瞬軽い目眩を覚えた。その窓辺に、寝台から背中を起こした小柄な人物の姿があった。
――成瀬真人だ。
その手元には、読みかけの文庫本が伏せられていた。どんなに不本意な来客でも、律儀に読書を中断するのがこの人らしい。
「これ、病院の近くで見つけたケーキ屋のです。果物のゼリーなんで、よかったら食べてください」
ありがとう、と受け取りながらも、その眉間には困惑のしわが刻まれている。サイドテーブルにのせる手つきも、まるで時限爆弾を扱うようなぎこちなさだ。
しかし、その反応には気づかないふりで、真紀は手近にあったパイプ椅子を引き寄せた。
患者服の襟元から覗いた鎖骨には、今も深い影ができている。少しでも栄養を補ってもらおうと、口当たりのよさそうな手土産を差し入れているのだが、ちゃんと口にしてもらえているかどうか怪しかった。
けれど近頃、心なしかその表情が柔らかい。
――悲惨な事故から、早一ヶ月。
一時は生死の境を彷徨いながらもその回復は順調で、近く抜糸も終わり、本格的なリハビリが始まるらしい。
しかし、今も先輩の中には、大きな記憶の欠落があった。
事故のショックからか、その過去の一部分が今も霞みがかったように思い出せないままなのだという。
それでも――今は、すべてが良い方向に向かっているように思えた。
たとえ一ヶ月前の事故の記憶や――子供の頃の思い出を忘れてしまったままなのだとしても。
「あ、ちょっといいですか。退屈かなと思ってラジオ持って来たんですけれど」
言いながら、鞄から取り出したそれをサイドテーブルの上に置いた。
「お前の家のものだろう。勝手に持ち出していいのか?」
「いえいえ、棚の飾りになってたヤツなんで、気にしないでください……先輩なら、やっぱりニュースか音楽ですかね?」
言いながら、慣れない手つきでつまみを調整する。
――その時だった。
「――あ、歌だ」
微かなノイズの後、スピーカーから柔らかな歌声が流れ始めた。どうやら外国のシャンソンのようだ。
耳元で囁くような、甘い歌声と仄暗い旋律。
――まるで深い眠りに誘いこむ雨音のような。
歌詞の意味はまるでわからない。けれど、その曲にこもった陰鬱さは伝わって来た。
ぞわり、と見えない手で首筋を撫でられるような、不吉な胸騒ぎと共に。
「――局番、変えましょうか」
少なくとも怪我人に相応しい曲ではない。
苦笑しながら、傍らを振り向いた――その時だった。
「――先輩?」
そこに――生気を失った人形がいた。
凍りついたように動きを止めた身体。焦点の合わない虚ろな視線。
まるで遠いところにある何かを――ここではないどこかを見つめているように。
何か恐ろしい夢を思い出すのにも似たそんな表情で。
「――先輩!」
不自然なほど切迫した声が出た。
途端、はっと我に返った顔で、その体が弛緩する。
束の間呼吸を忘れていたとでもいうように、喘ぐ勢いで息を吸って咳きこんだ。
思わず、その痩せた肩に触れようと手を伸ばす。
――途端、指先を払いのけられた。
既視感があった。まるで今回の事故に遭って入院する前の――先輩が、記憶を失う前と同じように。
「……すまない、何でもないんだ。もう帰ってくれ」
やがて、ぽつり、と呟く声が耳に届いた。
――嘘を吐いているのは明らかだった。
本当に「何でもない」のなら、どうして声が震えているのか。どうして顔をうつむけ、右手の指できつくシーツを握り締めたままなのか。
――ああ、この人は、相変わらず嘘が下手なままだ。
「いえ、俺は――」
「出て行け!」
頬を打つ叫び声は、怯えた獣の吠え声にも聞こえた。
「……わかりました」
しばらく迷ってから、真紀は椅子から立ち上がった。
しかし、このまま帰る気にはなれない。廊下に出て、医師か看護師を呼ぶつもりだった。たとえ、さらに疎まれる結果になったとしても――それでも、もう後悔することだけはしたくなかった。
ふぅ、と小さく息を吐く。廊下の窓からは、先ほどと変わらず、漂白されたような陽射しが差しこんでいた。
軽い目眩を覚えて、瞳をすがめる。気持ちを入れ替えようと軽く頬を叩いて、真紀は廊下を歩き始めた。
背後から声が聞こえたのは――その時だった。
「――すまない」
本当に、微かな――風のざわめきかと疑うほどの。
「――先輩?」
振り向いた廊下に人影はなかった。
ざわり、となぜか胸騒ぎに似たものがわき上がる。
病室の前まで引き返して、真紀は扉をノックした。 けれど、返事はない――肯定も拒絶もなく、返ってくるのは静寂ばかりだ。
まるでこの扉の向こうに今はもう誰もいないように。
――扉を開く。
がらんとした室内には、誰の姿もなかった。
真っ白な光に包まれた天井と床――そして、空っぽの寝台。動くもののないその場所で、窓に引かれたカーテンだけが、風をはらんで揺れている。
「――先輩?」
無意識に呼びかけていた。
いや、きっと自分と入れ違いで部屋を出た――そう考えるのが自然なのだろう。口うるさい後輩が戻って来ることを見越して、病室から姿を消したのだと。
きっと――ただ、それだけの話なのだ。
けれど、理性に警告するような違和感が。背筋を這い上る悪寒が。
そうじゃない、と囁き続けていた。
自分はあの人を一人にするべきではなかったのだと。
知らず、寝台に向かって一歩踏み出していた。
祈るような想いで室内を見回して――ふと、違和感の正体に気づく。
傍らのテーブルから、ラジオが姿を消していたのだ。
目の前には、開け放たれた窓ガラスがある。そして目隠しするようにはためく、白いカーテン。
耳を澄ますと、その向こうから微かな歌声が聞こえる気がした。まるで地面に落下した『何か』が、今なお歌い続けているように。
「――先輩?」
その呼びかけに、応える声はどこにもなかった。
今はまだ、室内は、束の間のまどろみに似た午後の静けさで充たされている。
――白い光だけが、今もまぶしい。
- end -