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空は相変わらずの灰色だった。
顔を上向けて空を仰いだその瞬間、天から唾を吐かれるようにして雨の最初の一滴が落ちる。いっそ雪になってくれればいいのに、と真紀は思う。そうすれば、今にもガチガチと音を立てて鳴り出しそうな奥歯を、寒さのせいだと納得させることができる。他でもない、自分自身に。
ぎし、と軋むほどに強く歯を噛みしめた。
――これから乗りこむ車の、同乗者に聞かせないために。
そうして公衆トイレを離れると、雨から逃げるような速足で煉瓦敷きの遊歩道を渡った。見ると、市民公園の入り口脇――植えこみの陰に停めたセダンは、先ほどと寸分変わらぬ様子でそこにあった。それが当然のことであるのに、胸の奥にはたちまち安堵の感情がこみ上げる。
そんな反応をしてしまう自分の過度な警戒心――怯え、とは言いたくなかった――が腹立たしくて、真紀はわざと荒々しい手つきで愛車のドアを開けると、バン、と音をたてて閉めた。
シートベルトを締めて、苛々とステアリングに指をかける。
その間、無言のままじっとフロントガラスを睨む真紀の背中には、はっきりと『話しかけるな』の六文字があった。
……しかし、相手がそれを読んでくれるとは限らない。
「――早かったね」
まるで天気の話でもするような、悠々とした声だった。後部座席から投げかけられたその声に、真紀はミラー越しに射殺すかのような視線を向ける。
実際、視線で人を殺せるならば、このまま殺してしまいたいほどなのだ。
「……誰かさんと違って、こっちは暇じゃないもんでね」
吐き捨てるように言った。
途端、喉の奥からこみ上げる汚泥のような不快感に、再び奥歯を噛みしめた。
そんな真紀の姿を、悠然と見つめる一対の目。
それこそが史上最悪とすら言える同乗者の存在だった。かつて不運な事故によって左腕を失い、そして今、残された右腕に手錠をはめ、片膝を立てた右の足首と繋がれている稀代の猟奇殺人犯。
(成瀬――)
真人、と口の中で続けようとしたその時、はっきりと喉が吐き気に震えるのを感じた。
駄目だ。
今目の前にいる存在を、その名で呼ぶことだけはどうしてもできない。かつて切り裂きジャックと呼ばれ――真紀の姉をその手にかけた、この世で最も憎むべき殺人犯を。
(――けれど)
胸の内で呟いて、はあ、と真紀は息を吐き出す。
正人と名乗った。真人ではなく、正人だと。
その言葉にすがりそうになる自分を感じる度、脳裏で答えの出ない問いが渦巻くのを感じた。果たして、今自分の目の前にいる存在は、一体誰なのだろうか?
(――けれど、今は)
そう、少なくとも今はまだ、この同乗者の名乗る名は、確かに成瀬正人なのだ。
「――なるほど? けど、表通りのドラッグストアまで走って吐き気止めを買った方が、もっと早いだろうにね」
独白めいて軽いその言葉に、真紀は一瞬、頭の奥が白く染まるのを感じた。
――見透かされたのだ。仲間と連絡を取るふりをして、公園で嘔吐していたことを。
思わず振り向いた視線の先には、あまりに生気に乏しい貌があった。
生来的な肌の白さばかりではない。その肢体から、生き物としての温もりが感じられないのだ。虚ろに向けられる視線は、まるでヌイグルミの瞳のようで、しかしその底にある虚ろなほどの冷たさに、真紀はぞわっと背筋が粟立つのを感じる。
もしも銃口を向けられたとしても、この目は瞬くことすらしないのではないか。
――たとえ引き金にかかった指がひかれたとしても。
そして、その指先の持ち主こそが自分であるような――そんなどこか予感じみた白昼夢に襲われて、真紀は正面へと向き直り、ステアリングに額を押し当てた。
(――本当に、似ても似つかない)
まったくの別人だ。彼自身が『正人』と名乗った、その通りに。けれど――。
ふと気配が重なる瞬間が――その虚ろな瞳の奥に、かつて側で守ろうとしていた人と同じ、途方もないほどの孤独と疲弊を見出してしまうその一瞬が、吐き気がするほどにおぞましい。
「……これから本部に向かいます。あくまで今日のような事態はイレギュラーですから、もう今回のような外出はないと、そのつもりで」
こみ上げる感情を押し殺し、まるで機械のナレーションのように言った真紀の声に、返る言葉はなかった。ちら、とミラー越しに背後をうかがうと、抱えた膝に額を押し当てたその顔は、瞼を閉じてまどろんでいるように見える。
はあ、と溜息を一つ吐き出す。
そうしてダッシュボードから取り出したのは、この辺りの簡略地図だった。刑事としては甚だ頼りない話だが、いかんせんこの辺りの地理には不案内だ。
確か、あの交差点を左に曲がるはずだったと思うのだが――。
「そう、そこの交差点で親子連れを跳ね飛ばして左だよ」
「ああ、はい、そこの交差点で……」
瞬間、車内の温度が氷点下まで下がった。
「――冗談は言う方だよ、割とね」
ミラー越しに覗き見た口元は、笑っていた。
しばらくして真紀は、犬のように喉の奥で低く唸る。
「……わかりました。金輪際黙っててください」
そして息の続く限り罵倒し続けたい衝動をこめて、思い切りアクセルを踏みこんだ。
- end -