In fragments




◆ 生きているならいいんだ。生きていてくれるならいいんだ。それならいいんだ。それだけでいいんだ。


◆ 冷蔵庫=死体を詰める箱。この場所に「父親」という他者が存在するには、「死体(=無生物)」になるしかない。この箱にしまわれた時、生物は無生物へと変わる。父親という存在は、「冷蔵庫」と同義になる。その存在は、今は冷蔵庫そのものだ。


◆ 僕の他に人がいるんだな。そんなことが、ずいぶん僕には意外だった。


◆ 驚きましたよ。本当にただ頭がおかしいんだなあ。どうしてこんな所に入っているのかとか、そういう自覚はあるんですか? 一体自分が何をしたのかとか。ないな、いいなあ。あるなら――死んでくれた方がマシかな。


◆ 真人にとって真紀とは「唯一の社会との繋がり(=接点)」だった。ゲーム本編において「覚めない悪夢(=自分自身の牢獄)」の「出口」が真紀という存在だったことが、その証明となっている。真紀を拒絶することは、真人によって「社会との繋がりを断ち切る」ことに直結する。それは「悪夢の出口を閉ざす」ことでもあるのだ。一方、真人にとって真紀という「罪の象徴」は、過酷なストレス源だった。それでも真紀の存在を拒めなかったのは、真人の中に「悪夢から逃げ出したい(=自分自身から逃れたい)」という欲求があったからなのかもしれない。むしろ真人が最も恐れていたのは「自分自身」と言えるのではないだろうか。


◆ もう兎は僕を殺さない。


◆ 真人の中には「生きたい」という強い願望があるように思える。これは真人が、これまでろくな人生を送ってこなかったことに起因しているのではないだろうか。命としての希薄さ。学校と家との往復。両親とどこかに出かけた記憶もなく、友だちと遊びに繰り出した思い出もない。自傷癖のある母親を看病するため、家の中に閉じこめられるように過ごす日々。社会にとって希薄な存在。透明な子供。誰とも繋がっていない人間。この社会との繋がりの希薄さが、両親に対する過度の愛情へと結びつき、特に自分とよく似た母親を同一視するまでになった。しかし、そんな真人の目にも、同い年の子供たちの生活が、学校での会話やテレビや本などを通して入ってくる。まるでガラスの水槽越しに外の世界を覗き見るように。真人の中には「外の世界(=家の外)」に対する強い憧れがあった。自分以外の他人に対する憧れ。自分もいつか彼らのように生きることができるのではないか。家の外に出たい。自分以外の誰かとして存在したい。ふだん無意識下に押しこめられているこの願望が「死にたくない」「生きたい」という欲求に繋がっているのではないだろうか。正確に言えば、それは「このまま死にたくない。僕はまだろくに生きていない」という叫びとも言える。


◆ 生きるのが苦しい。息をするのが苦しい。しかし――死にたくない。この状況下でもたらされる「救い」こそが、「忘却」か「眠り」だったのではないだろうか。苦しみの原因となる記憶をすべて忘れること。もしくは「眠り」によって、苦しんでいる自我そのものをなくすこと。「眠り」は「発狂」にも置き換えることができる。『眠りの森』で眠り続ける真人。『檻の中の夢』で正気を手放した真人――どちらも「救済」としての「眠り」を受け入れた状態なのだ。そして「忘却」によってもたらされた救済が、『さよなら』である。眠ることは死ではない。狂うことも死ではない。限りなく死に近づきながらも、死なずに生き続けることができる。しかし、それは紛れもない「精神の死」なのだが――真人にとっては「眠り」も「発狂」も生きているだけマシなのだ。


◆ その時、不意に僕は僕になった。


◆ 校舎が増殖する。教室が増殖する。見分けもつかず、区別もないまま、無限に増殖する教室。匿名の部屋。永遠に向かって伸びる廊下。暗闇にのみこまれる消失点。日曜日の校舎をさまよう真人は、外に出ることができない。出られない。校舎とは真人の脳髄そのものである。真人は自分自身の中に閉じこめられているのだ。言いかえれば、真人を閉じこめたのは真人自身である。正反対の事象が同時に発生し、真人は閉じこめると同時に、閉じこめられている。「悪夢」という檻は、真人を苦しめると同時に、現実から護っているのだ。檻には両義性がそなわっている。囚人を閉じこめると同時に、石礫を投げる群衆から囚人を守っている。言わば、檻の中だからこそ囚人は生きることができるのだ。


◆ 切り裂きジャック事件が起こるまで、真紀の中には、他者との間に明確な線引きがなかった。家族も同級生も、少なくとも今よりずっと近い距離に存在していたのである。しかし今では「他者」と「自分」の間に明確な線引きがなされ、決して打ち明けることのできない秘密を、胸の内に抱えることになってしまった。それによって真紀は、初めて他者との間に「疎外感」を感じるようになり、「孤独」に苦しむようになったのである。それは、対外的な「孤独」ではない。今も真紀の周りには、家族・部活の仲間・クラスメイトたちが存在し、事件によって精神的に疲弊した真紀を心配している。真紀の孤独は、そんな彼らに「打ち明けられない秘密」を抱えているという「罪悪感・怯え・後ろめたさ」から発生しており、原因が真紀自身にある以上、この孤独は「真紀自身の心情の変化」によってしか解決する術がないのだ。真紀の心は「孤独」からの解放を望んでいた。そこで真紀の目にとまったのが、姉と同一視可能な「成瀬真人」という存在だったのである。


◆ 真人にとって真紀の存在は、ある種のストレスではなかったのだろうか。真人は「切り裂きジャック」という「加害者」であり、真紀はその犠牲者の弟という「被害者」の立場である。次第に、真人の周りから切り裂きジャックの落とした影は薄れつつあった。警察の捜査も真人の元には及ばず、世間の誰もが「切り裂きジャック」を忘れてしまったように見える。このまま何事もなく忘れられていくのではないか。そう考えた時、真人の中には確かな安堵があったのではないだろうか。けれど真紀だけが、真人に一連の事件を忘れさせなかった。「被害者」である真紀の存在は、真人にとって罪の証明そのものである。どんなに世間の関心が薄れても、真紀と対峙するたび、真人はその罪状を突きつけられる。思えば、真人にとって真紀の存在は「唯一接点のある他人」であると同時に、「最も避けたい存在」だったのではないだろうか。真人にとって真紀の存在は、心の拠り所であると同時に、多大なストレスを与える存在である。なぜなら真人は「加害者」であり、対して真紀は「被害者」であり、「復讐者」になりえる存在だからだ。虐げられることに慣れきっている真人にとって、クラスメイトたちの迫害(いじめ)も、警察による断罪も、罰にはなりえない。しかし真紀は、真人にとってただ一人の「心の拠り所」である。真紀の存在によって、真人の心臓には再び血が通い、鎧のようだった瘡蓋も剥がれつつある。だからこそ真紀の振り下ろす一撃は、真人にとって激痛を伴う致命傷となりえるのだ。真人には、真紀の存在が恐ろしくてならない。罪が発覚し、憎しみの眼差しを向けられ、復讐のナイフを向けられる日が来ることが。真紀に側にいて欲しい。いや、目の前から消え去って欲しい。この矛盾が、真人の中で無自覚な葛藤となってせめぎ合っている。この葛藤を解消する方法は幾つかある。ひとつ、真紀に断罪される前に兎の手で断罪を受ける(=自殺する)、ふたつ、苦しみの根源となっている自我を手放す(=発狂する)。発狂すれば、たとえ真紀が真人の正体に気づき、断罪の刃を向けたところで、真人が痛みを覚えることはない。麻薬のように狂気で麻痺した心には、どんな痛みも届かない。真紀が「自分」に向かって憎しみを向け、否定する前に、その対象となる「自分」を消してしまったのである。または「矛盾」の根源となっている「罪」を自分の中から抹消する(=忘却する)という手段もある。まったくの一時しのぎではあるが、たとえば、モルヒネによって痛覚を麻痺させるように、痛みそのものは変わらずそこにあっても、痛覚を感じる神経を取り除いてしまえば、痛みから解放される――という理屈である。罪の記憶そのものを忘却してしまえば、「真紀の側にいたい。けれどその存在が恐ろしくて仕方ない」という葛藤が生じることもない。完全な「心の拠り所」として真紀を位置づけ、肩を並べて歩き出すことができるのである。しかし、それはあくまでモルヒネによって一時的に患部(病巣)の存在を忘れさせているにすぎず、モルヒネの効果が切れた時こそ、耐えがたい激痛がもたらされるのではないだろうか。


◆ 兎の中に僕がいて、僕の中に兎がいる。


◆ ゲーム中、女生徒・兎・保険医の三者は、弟と同様「現実に存在しないと(無意識下で)知っているもの」に該当する。兎は「自罰感情・自殺願望の具現化」という「架空の存在」であり、保健医は「死者」、女生徒は少なくとも重傷を負って病院に運ばれているはずの「死者に準ずる存在」であるからだ。この悪夢において実在している「生者」は、エキストラである通行人を除けば、日野真紀一人だけである。そのため、ゲーム中の立ち絵では「日野真紀」のみが雨に濡れている。


◆ 悪夢の舞台は、そのほとんどが「家」と「校舎」に限定されている。この二つの場所に、本質的な違いはないのだ。閉じこめるもの。檻。どちらを選んでも、頭蓋骨という檻の中だ。校舎も家も、脳髄の中であることに変わりはない。裏を返せば、真人の中には、『校舎』と『家』の二つしかないのだ。真人の記憶に、他の場所は存在しない。それは、真人が家と学校の往復によって日常を構成していたことを意味している。たとえ世界に無限の広がりがあったとしても、檻から出られなければ存在しないのと同じだ。しかし「家」も「校舎」も、真人を受け入れる「居場所」にはなりえない。校舎の壁は真人を押し潰すように迫り、家は冷蔵庫や浴槽に詰まった死体を突きつける。子宮に充ちた羊水で、胎児は殺されようとしている。誕生の瞬間、羊水は胎児を溺れさせる凶器に変わる。子宮の中にとどまることは、胎児にとっての死を意味する。悪夢から目覚めることは、子宮の外に出ることと同義であり、母親(=過去の記憶)や双子の弟(=罪の記憶)という、かつて自分と一体であったものから切り離され、一人の人間として生まれる(=目覚める)ことを指す。『さよなら』で、真人が過去の一部を失い、殺人という罪の記憶ごと弟の存在を失ったのは、母親から自らを切り離し、生まれる(生きる)ことを選択したからとも言えるのではないか。


◆ それなら、目を覚まさなければ、もう大丈夫だね。


 実は、誰とは言いませんがシナリオ担当は、「暗い日曜日-Sombre Dimanche-」関連作品の中で「暗い日曜日-Unbirth-」を一番気に入っています。
 制作当時は↑のようなあれこれを書き殴ったノートを、控え目に言って世間から指さして笑われるほどに作りました。
 作中にそのまま採用されたりされなかったり、別の形で反映されたりしています。