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もしも正人が双子の弟として実在したら?



「――僕が一位だった」
 開口一番、リビングのソファでくつろぐ正人の鼻先に突きつけられたのは、期末テストの成績表だった。
 氏名は「成瀬真人」――学年順位は「一位」とある。
 ちなみに正人の成績表には「三位」と印刷されていた。学年首位からの陥落は、かれこれ二年ぶりになる。しかし、その結果とは裏腹に、成績表を手にした真人の態度は、極めて不本意そうだった。
 帰宅早々、ソファの前で仁王立ちになったその顔は、眉間のしわが二割ほど増して、一層しかめっ面になっている。
「――へえ、よかったじゃないか。おめでとう」
「何もよくないだろ。お前が『飽きた』とか言ってテストを一教科分放り出して帰ったりするから、こんな順位になるんだ。本当ならお前が――」
「おかしいな。僕に一位でいて欲しかったように聞こえる」
 わずかにからかう調子で言うと、さらに小言を続けようとしていた真人は、ぐっと言葉に詰まった様子で黙りこんだ。
 物言いたげに口を開いて――何も思いつかなかったのか、無言のまま瓜二つの弟を睨みつける。
 脱いだ学生服の上着を、いつもより手荒にソファに放って、小柄な背中は台所に消えた。とっさに捨て台詞を思いつけないのが、兄らしいと言えば兄らしい。もしかすると本人は、今も熟考中のつもりなのかもしれないけれど。
 と、そこで正人は、鍋を火にかけっ放しだったのを思い出した。中身は、珍しく下校途中に買った牛乳だ。
「――鍋、ふきこぼれそうだったらよろしく」
 短く頼むと、台所からは「自分で止めたらどうなんだ」と、ため息混じりに抗議する声が返ってきた。しかしその背中は、律儀にガスコンロの鍋を覗きこんでいる。甘やかすことが習慣として身についてしまっている行動だ。これもまあ、兄が兄である所以だろう。
「珍しいな。ミルクティーにでもするのか?」
 白いシャツの袖をまくり、紅茶の缶を掴みながら真人が訊ねる。しかし、仰向けになって文庫本を手に取った正人は、首を横に振った。
「いや、カフェオレにしてくれるかな――砂糖は多めで」
 その注文に、振り向いた真人が意外そうな顔をする。
「本当に珍しいな、お前がカフェオレなんて」
「兄さんが飲むんだよ」
 ――ふきこぼれた。
 慌ててガスコンロの火を止めた真人は、まなじりを吊り上げて正人を振り返る。
 しかし、抗議の声が飛び出すより早く、遮るように正人が言った。
「近頃、外ですませて来たって言いながら、ろくに食事をしてないだろ――見ればわかるよ」
 温度のない、冷ややかな声になった。
 台所に立つ兄からは、気まずげな沈黙が返ってくる――図星だったらしい。
「――兄さんは、嘘が下手すぎる」
 呆れ混じりに正人が呟く。
 観念したのか、ため息と共に鍋の持ち手を掴んだ真人の横顔には、苦笑いが滲んでいた。
「この前、後輩にも似たようなことを言われたよ」
「――へえ、誰?」
「図書委員の後輩で、陸上部にいる奴なんだが――」
「――日野真紀?」
「なんだ、知ってたのか」
 振り向いた真人が、驚いた顔をする。
 本のページを閉じた正人は、少し深めに息を吸った。
 低く、抑揚をおさえた声をつくる。その些細な変化に、目の前の兄が気づくことはないだろうけれど。
「この前、放課後の図書室で一緒に作業をやらされてたね。無責任な顧問から二人で仕事を押しつけられる内に、少しずつ話すようになった?」
 返ってきた沈黙には、驚きよりも感心の方が濃く表れていた。
 その手元では「砂糖多めのカフェオレ」が無事に完成を迎えたらしい。
 マグカップ片手に台所から戻って来た真人は、正面のソファに腰かけて、じっと正人の姿を見つめた。
「――何?」
「相変わらず、何でもお見通しなんだな、お前は」
 苦笑いを混ぜた声で真人が言った。
 その手元のマグカップからは、仄かに白い湯気が立ち上っている。
 昔と比べると、ずいぶん柔らかく笑うようになった――と正人は思う。
 ――その変化にも、本人が気づくことはないのだろうけれど。
「僕はこの先ずっと、お前に嘘が吐けそうにない」
 そうだろうね、と呟こうとして――声がかすれた。
 持ち上げた片腕で、両目を隠して瞼を閉じる。
 蛍光灯の光が陰ると、次の瞬間、視界のすべてが瞼の裏の暗闇に飲みこまれた。
 一瞬、二人で過ごすこの時間がまどろみの夢のように思えて――けれど、今はまだ、目覚めたいとは思えなかった。


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