I n t h e R a i n  - a f t e r -



 Monday,November 11/ 03:40p.m. / Maki Hino

 あいにくの雨だった。
 それも2度目。似たような状況で雨に降られたのが、つい1ヶ月前だ。
 共通点の1つが、場所。
 授業を終えた後の、放課後の図書室。
 耳を澄ますと、階段を駆け下りる足音と笑い声が、遠い潮騒のように伝わってくる。これから昇降口へと向かい、手に手に傘をさしながら、灰色の雨空の下へと飛び出すのだろう。
 つい先ほどまで――そう、ホームルームの終わり際までは、自分もその中の一員に加わるつもりだった。担任教師の口から、図書委員に召集がかかったことを告げられるまでは。
(……あと20分)
 集合時刻は、午後4時ジャスト。
 掃除当番もなく、かと言って陸上部に顔を出すわけにもいかず、どうにも手持ち無沙汰になって図書室へと向かった。昼寝でもして時間を潰そうと思ったのだけれど、どうやら似たようなことを考えたらしい上級生と見事に鉢合わせするはめになってしまった。
(いや、この人は、昼寝はしないんだろうけれど)
 長方形のテーブルの、ちょうど対角線上に、件の先輩が座っている。
 先ほどから文庫本のページに目を落としたまま、顔を上げることもしない。ひょっとして、ここにこうして真紀が存在していることに、気づいてすらいないのではないだろうか。
 端正な横顔は、相変わらず人形のように硬質だった。
 ぴんと伸ばされた背筋は、まるで見えない針金で固定されているようだ。痩せすぎの体型も相まって、どこか痛々し気に感じてしまうのは気のせいだろうか。
(雨が、好きではないと言っていたけれど)
 1ヶ月前、そう言って頭痛を堪えていた横顔をそっとうかがう。
 果たして今日の体調はどうなのだろうか。
 眉間に、皺は――やはりある。けれど、皺の深さを5段階のレベルに分けて、前回の険しさをレベル4とするなら、今回はレベル2といったところだ。果たしてこれは、やはり頭痛がしていることを暗に示しているのだろうか。いや、ひょっとするとこれが地顔ということも。
 と、あれこれ考えを巡らせていたその時、不意に深度がレベル5へと悪化した。
「……何か用か?」
 顔を上げた視線が、怪訝そうに真紀へと注がれる。どうやら様子をうかがっていたことに気づかれてしまったらしい。直後に、どっと背中から汗が吹き出した。あたふたと視線を逸らすが、今さら取り繕っても後の祭りだ。
「委員会、始まるの遅いですよね」
「……まだ15分前だが」
 世間話で誤魔化そうとして撃沈した。
 怪訝さを通り越して困惑しているその声に、真紀は背後の壁にめりこみたい衝動をこらえる。
 というか、前回もこんなやりとりをやらなかったろうか? 二度も醜態をさらすなんて、自分の学習能力は、もしや猿以下なのではないだろうか。
 と、いきなり後頭部をはたかれた。
「あだっ!」
 振り向くと、背後に顧問の姿があった。
 だらしなく襟元のよれたポロシャツは、胸ポケットから煙草のパッケージが覗いている。確か職員室は禁煙だったはずだが、まさか外で吸っているのだろうか。だとしたら、この雨の中ご苦労なことだ。そしてブランド物の腕時計が巻かれた腕に、重そうに抱えられているのは――。
「あ、もう刷り上がったんですね」
 月に1度、図書委員で発行する「図書館だより」だ。
 全8ページ。先月は、アンケート用紙が挟まれていたために、全校生徒分を刷らざるをえなかったが、通常はこうして図書館で希望者に配布する分のみだ。
 今回は、前回のアンケート結果の集計、そして「図書館からのお知らせ」や「今月の新着本コーナー」といった、いわゆる「お定まり」の記事で埋め尽くされている。
 そのラストを飾るのが、図書委員の1年生が担当する「オススメ本コーナー」だ。紹介する本は一冊だが、なぜか誌面はまるまる一面分割かれている。
 図書委員のくせに読書好きにはほど遠い――むしろ小学生の作文レベルすら怪しい真紀にとっては、滝に打たれるよりも恐ろしい苦行だ。
 それでも七転八倒の末なんとか書き上げ、顧問を通して提出したのがつい一昨日。あとは担当の2年生が誤字脱字をチェックして、それから印刷にかけるということだったけれど。
「あのな、お前、少しは国語の勉強しろよ。これ刷るのにどれだけ苦労したと思ってんだ」
「……あの、俺、何かしでかしましたか?」
「これを見ろ、これを」
 と言って差し出された原稿に、思わず「うわっ」と悲鳴が上がった。
 見覚えのある手書きの文字は、確かに真紀自身のものだ。その上から、まるで蟻がたかるようにびっしりと赤文字が書きこまれている――誤字脱字の添削だ。
 まさか、これほど間違いがあったとは。何より、これだけの量を手直しする苦労を思うと、想像するだけで気が遠くなってくる。
「感謝しろよ。そこにいる成瀬が、国語辞典と首っ引きになりながら、昨日遅くまで手直ししてくれたんだ。でなけれりゃ一から書き直しで、印刷も間に合わなかったんだからな」
 言いながら、ぱしっと後頭部を叩かれる。
 手つきは軽かったけれど、真紀はカナヅチで殴られたような衝撃を受けた。たった今、同じテーブルに座っているこの先輩が、陰ながら奮闘してくれていたのだというその事実に。
(文句を言ってくれても、よかったのに)
 むしろ罵られて当然だろう。
 お前のせいで迷惑したと、顔を合わせた途端、罵倒されたとしても文句は言えない。
 なのにこの先輩は、今まで何も言わなかったのだ。ついこの前、真紀のせいで迷惑をこうむったことなど知らぬげに。文句も、不満も、一言も口にしないまま、ただ黙って。
「しっかし、お前なー、いくら特待生だからって、学生の本分は学業だぞー。小学生の漢字ドリルからやり直してみるか? ん? いくら陸上部のホープだからって、ろくに漢字も書けないまま社会人になったら、ただのゴミ屑だからなー」
 くすくす、と笑う声に顔を上げると、にやにや笑いの2年生が数人、真紀の方を見ながら肘をつつきあって笑っている。かっと頬が熱くなるのを感じながらも、真紀は反論もなく項垂れた。穴があったら入りたいとはまさにこの状況だ。
 昔から、勉強と名のつくことは得意ではなかった。馬鹿だ、阿呆だ、とは言われ慣れている。クラスメイトや部活の仲間たちの一部でも、陰で笑いものにされているのも知っている。
 陰口を叩かれることに比べたら、こうして面と向かって言われた方が百倍もマシだ。
 けれど、まるで鉛の塊を呑みこんだように、胸の奥がずしりと重くなって、上手く息を吐き出すことができなかった。
「……すみませんでした」
 なんとか絞り出したその一言に、「おー頑張れよー」という言葉を残してポロシャツの背中が遠ざかっていく。
 気がつくと、固く拳を握り締めてしまっていた。開いた手の平には、くっきりと爪痕が残っている。じわじわと血が滲むように熱と痛みの広がるそれを見下ろして、はあ、と溜息を吐いた。
 直後に、はっと我に返る。一体何をやっているのだろう。迷惑をかけてしまった当の先輩に、まだ謝ることができていないではないか。
「あの、本当に、すみませんでした!」
 椅子を引いて立ち上がる。テーブルに額をぶつける勢いで、勢いよく頭を下げた。
 どれほど呆れられてしまっただろうか。
 もしも顔を上げれば、呆れ返った表情を向けられるに違いない。それとも嫌悪や苛立ち、嘲笑の類だろうか。
 できれば、このまま顔を上げずにいられたら、と思う。
 どんな表情を向けられても、それは自分のせいなのだという、その自己嫌悪こそが何より辛い。
「すみません、俺、馬鹿で……昔から、こういうのは本当に苦手で」
 ぼそぼそ言い訳を口にする。
 意を決して顔を上げようとしたその時、ぱたり、と本を閉じる音が聞こえた。
「……辞書の引き方はわかるのか?」
 一瞬、言葉の意味を理解するのに時間がかかった。
「え、あ、はい、国語の時間で使いますから、何とか」
「――なら、お前は馬鹿じゃない」
 そこにあったのは、やはり針金のようにまっすぐな眼差しだった。
 そして感情を抑えた、硬い声。
 けれど、予期していたものは何もなかった。苛立ちも、呆れも、軽蔑も、怒りも。
 ただ、わずかに眉をひそめたまま、これまでと何も変わらない、そんな表情で。
「言い訳に使うな」
 そう一言だけ残して、読み終えたらしい文庫本を手に席を立つ。一人テーブルに取り残された真紀は、頬を張られたような驚きと共に、その後ろ姿を見送った。
 どこか痛々しく見えながら、けれど誰よりも真っすぐ伸びた、その背中を。
「……そうか、国語辞典で調べればよかったんだ」
 思わず、そんな呟きが口からこぼれた。
 頭を抱えて悩んでいた問題に、思いがけないところから答えを投げかけられた気分だった。
 昨日の放課後、遅くまで添削作業に取り組んでくれた真人は、国語辞典と首っ引きになっていたと言う。おそらく真紀の何百倍も、漢字の知識があるに違いない。けれど彼は、辞書を引いて確認するという努力を怠ることなく、与えられた仕事をやり遂げたのだ。
 そして一方の真紀は、当然のようにその努力を怠ってしまった。
(馬鹿か、馬鹿じゃないかという問題じゃない)
 頭の出来、不出来ではなく。
 単に努力の問題なのだ、ということなのだろう。そして、そのことを言葉にして真紀に教えてくれたのだ――お前は馬鹿じゃない、と。
「……なんか格好いいな、あの人」
 思わず呟いた言葉が、ガラス越しに続く雨音へと溶けた。
 これ以上つきまとったら迷惑かな、と迷いながらも席を立つ。
 もう1度だけ、ありがとう、と伝えるために。
 そして、この先また「馬鹿だから」と言い訳してしまいそうになる度、この日のことを思い出せるようにしようと思った。
 たとえこの雨が止んでからも――この先もずっと、忘れないように。


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