け れ ど 日 曜 日 に 雨 は 止 ま な い



 6月の土曜日は、朝から雨の匂いがする。
 本音を言うなら、こんな不機嫌な空模様の日は、できれば一歩も外になんか出たくない。
 けれど、出無精を決めこんでいては、巡り合えないものもある。せっかく転がっていたチャンスをふいにしてしまったり、出会えるべき何かと出会えなかったりして――そう、具体的に言えば新装開店セール70%OFFの一点物バッグとか。
「ほらほら、早く起きて。いつまでもぼうっとしてたらダメだよ。あと30分したらデパートで荷物持ちしてもらうんだから」
 育ちすぎたゴールデンレトリバーみたいにデーンと寝そべっている弟――真紀の布団を引っぺがし、そのままベッド脇に仁王立ちして、トントン、とエア腕時計を叩いてみせた。
 あふ、とあくびをして起き上がった弟は、いかにも寝起きらしいぼんやり顔で私を見ると、
「いやもう、何が不思議ってそんな予定初耳なんだけどなあ、俺は」
 とぶつくさ文句を言いつつ、立てた膝の上で頬杖をついて、はあーっと溜息を吐き出した。けれど口元には、仕方なさそうな苦笑が滲んでいる。
 そういう弟なのだ。基本、友だちにも他人にも甘い。姉である私には当社比1.5倍だ。
 と、のそのそベッドから起き出した真紀は、まず枕元に置かれたケータイを掴んだ。ぽちぽちいじって受信ボックスを確認すると、浮かない顔で溜息ひとつ。
 ――んん?
 さらにクローゼットから着替えを引っ張り出す間にも、窓の外の天気が気になる遠足前の小学生みたいに、ちらちらとケータイの様子をうかがっている。
 ――んんん?
「……気になるの?」
 どうも珍しい。というか怪しい。いつもなら、ちゃんとケータイを携帯しているのか不安になるほどの放置っぷりなのに。
「いや、やっぱり返信ないなと思って……実は昨日、駄目元でメールしてみたんだけど」
 ――あ、ピンときた!
「例の眉間に皺が多い先輩?」
 ズバリ訊くと、どこかバツの悪そうな顔をした真紀が、曖昧な仕草で頷いた。
「いや、その、そもそもケータイを持ってること自体意外だったんだけど、そしたらけっこう頻繁に確認してて、訊いてみたら家族との連絡用だって……」
 と、なんだか上の空な感じで答える。
 いまいち要領を得ないのは、何か考え事をしているせいなんだろうか。
「なんか部活の先輩の目撃情報だと、お母さんからの呼び出しで授業中に早退することも多いらしくて……」
「……ねえ、目撃情報って普通に使う言葉なの? 最近じゃそうなの?」
 というかウチの弟、私の知らない内に謎の生物を追うミステリーハンターか、それとも普通にストーカーになってたりしないだろうか――と心配になったものの、今ここで訊くのも気が引ける。
 そんな姉心を知ってか知らずか、はあ、ともう一度溜息を吐いた不肖の弟は、ぐにぐに眉間をもみほぐすと、
「どうも最近、具合が悪そうというか、しょっちゅう眉間の皺が深くなるみたいなんで、気晴らしに出かけませんか? ってメールしてみたんだけど――」
 その時だった。
 突然、ブブブと震動したケータイに「うわあ!」と思わず二人揃って悲鳴を上げてしまった。メールの着信音だ。弟の顔色を見る限り、待ちに待った返信が来たらしい。
 ……どうしよう、YESかNOか非常に気になる。
 覗き見は悪いよな、と思いつつも、あたふたと受信ボックスを開く弟の背後に忍び寄ると、そっと手元を覗きこんでみた。

 件名 Re:日曜日に
 悪いがメールは已めて暮。。いまからでんわる

 ……うーん。
「えーと……たぶん打ち間違えかな」
 と困惑した声で真紀がコメントした。「え、じゃあ、まさかお母さんとのメールのやりとりって、先輩の方は受信専用……?」と、なんとも痛ましい憶測まで口にしている。できれば聞こえなかったことにしたい。つまり、これまでメールを送る相手が一人もいなかったというわけで、それはいくらなんでも悲しすぎるんじゃないだろうか。
 ―――と、突然。
 PPPPP。電話の呼び出し音が鳴った。
「うわあ!」
 と3pぐらい飛び上がった真紀が、危うくケータイを取り落としそうになりながらも、なんとか掴み直して耳に押し当てる。
「もしもし、あの、俺です――ええと、本当に先輩ですか?」
『……偽物かどうか疑われてるのか、僕は』
 スピーカーから聞こえてくる声は、ぼんやりとくぐもって不機嫌そうだった。
「いや、そういうわけじゃないんですけど、反射的に信じられなくて」
 すみません、と謝った弟が、ぺこりと空中に向かって頭を下げる。いや、それじゃ通話相手には見えないだろう。ついやってしまうのも日本人としてはわかるけれど、今はそれどころじゃなくて――。
『日曜日! お誘い! 返事!』
 と身ぶり手ぶりのジェスチャーで伝えながら、パクパクと口を動かしてみた。
 それを見てはっと我に返ったらしい弟は、ようやく本題を思い出した様子で、あー、えー、とマイクの音声テストのような声を出すと、
「昨日のメールの件なんですけど、もしも予定が空いてたら、明日どこか行きませんか?」
 いちおう映画の割引券もありますし、とつけ加える。
 ――返事にはだいぶ間があった。
 電波の向こうにいる誰かが、ふと息を詰まらせたのがわかる、そんな沈黙。
 ……あれ? YESかNOかを迷っている雰囲気じゃない。
 これはたぶん、もっと別の――。
『……悪いが、断らせてくれ』
 その返事に、今度は真紀の方が喉に何かを詰まらせたのがわかった。
 もしかすると声の調子から、私にはわからない何かを読み取ったのかもしれない。ここにいない誰かを気づかうような、底に心配の滲んだ声で。
「もしかして、お母さんに何かありました?」
『……いいや』
「……お母さんと、何かありました?」
 ――沈黙。
 それは、現実にはほんの数秒の、けれど私にとっては数分にも感じられる時間だった。もしかすると弟には、その倍以上だったかもしれない。
「……すみません」
 とかすれ声で謝った弟の、やるせない気持ちと後悔が、その背中から伝わってくる気がした。
『……もう切っていいか?』
 けれど、ケータイから返ってきた声に怒りはなかった。苛立ちも、呆れも、苦笑も。
 本当は、ほっと安堵するべきところなのだろう。けれど、低く押し殺したように感じられるその声は、そんなはずないのになぜか泣き声に似ている気がして――どうしてか胸に詰まる。
「はい、わかりました。じゃあ、来週また委員会で――あ」
 突然、ぱっと真紀が顔を上げた。
 その視線は、私の背後の窓ガラスを――いや、その向こうに広がる曇天を見上げている。
 何だろう、と振り向いた私は、あ、と思わず声を上げてしまった。
 ついさっきまでコンクリートの壁のように空を覆っていた雨雲は、どうやら強風で吹き散らされたらしい。まるでぽっかりと開いた出口のように、空の真ん中に穴が開いて――。
『――何だ?』
「あの、すみません、今、窓の外で雲間から光が差して、その」
 見ているこっちがヒヤヒヤするようなしどろもどろっぷりだ。近くで聞き耳を立てている私にまで、居たたまれなさが伝染してしまう。かくなる上は、即通話を終了させて、今日は一日カタツムリみたいに布団をかぶって恥ずかしさに震えるしかない。
 ――けれど。
 返ってきたのは、苦笑でも呆れ声でもなかった。
 ただ、ふと視線を上げたような、窓辺を振り向いたような、そんな沈黙があって――。
『――ああ、見える』
 綺麗だな、と小さく呟いたその声は、空耳には聞こえなかった。
 ――やがて。
 また月曜日に、という言葉を最後に通話が終わる。
 慰めてあげた方がいいかな、と思った私は、今もぼんやりと空を見ている弟の姿を眺めながら、とりあえずポンッと肩を叩いてあげるために、フローリングの床に一歩踏み出した。
「あ」
 突然、視界がかげる。
 振り向いた空は、まるで鉛筆で塗り潰したみたいに再び雨雲に閉ざされていて、わずかに青みがかった空気は、先ほど差した光が幻だったように濃く水気を帯びていた。
 ――もうすぐ雨になるのだ。
「……早く止むといいな」
 と小さく呟く。
 もしもいつかの日曜日、弟たち二人が映画に行くことがあったら、その時は思いきり晴れるといいなと、そう願いながら。


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